2017年12月26日火曜日

クリスマスはなぜ楽しさと悲しさの二面性を持つのか

今年のクリスマスは終わりましたが、クリスマスについて考えてみました。

そもそもクリスマスはイエスキリストの生誕を祝う日ということは皆承知のことと思いますが、何故キリスト教徒が少ない日本でこんなにも定着しているのか、
そして、現状「楽しい人」と「悲しい人」、「寂しい人」が存在するのか。



サンタクロース、プレゼント、イルミネーション、パーティ、ケーキ、チキン、デートなど古来の日本の歴史や文化には無い華やかさがあります。

このクリスマスに関わらず日本人は欧米文化に魅力を感じたため、食べ物、衣服などを含め多くの文化を受け入れたのでしょう。

特にこのクリスマスは子供にとってはプレゼントを貰えるという「大きな期待」があり、年に一番の楽しみという子も多いのではないでしょうか。
サンタさんからのプレゼントと思っている頃でも、親からのプレゼントになってもやはり子供の時は楽しみなものでした。

その背景にはいわゆるモノが高度成長期からモノが増えてきたと同時に物欲も上昇するわけですが、子供にとっても同じでその時代時代で流行する「おもちゃ」が欲しいわけです。

僕の子供の頃は通常の家庭では「おもちゃ」は簡単に買ってもらえる訳ではなく、誕生日とかクリスマスなど特別な日にはちょっと高価なものを買ってもらえるという程度でした。
(お金持ちの家の子は普段から買ってもらっているような子もいたけど・・)

今思えば僕の家庭は平均以下の生活水準だったのでプレゼントを期待する子供に対して親は辛かったのではないかと思います。

また、先日アンケート調査報告では貧困家庭の親は「クリスマスは来て欲しく無い」という回答も少なからずあったようです。

このように考えると「楽しいイベント」であると同時に、対応できない人や家庭にとっては「悲しい」とか「辛い」とかの感情を抱きかねないことでもあるのは実情です。

さて、クリスマスは子供と親の関係だけではありません。

アメリカでは基本的に宗教的な行事である「クリスマス」ですので家族で過ごすことが普通なようですが、特に日本では大人になると、恋人やパートナーと過ごすことが「夢」であったり「ステータス」であったりする風習が延々と続いています。
そうでない場合でも家族や友人同士でパーティなどで集まり楽しむことも普通であり、大人同士のプレゼント交換なども普通の行事となっています。

一方、「恋人」や「パートナー」がいない人=「寂しい」という構図が昔から(いつ頃かわからないが)延々と続いています。
(もちろん気にしていない人も多いのですが)
同じように皆でパーティをする人も多いということから、一人でクリスマスを過ごすいわゆる「クリスマスぼっち」=「寂しい」という構図も続いています。

この心理はクリスマスに限らず、他人に対しての劣等感を感じたり、羨ましいと思うことからではないかと思います。
しかし、そもそもクリスマスに「恋人・パートナー」と過ごす事が理想という心理が働かなければ全く問題無いのですが、そう思ってしまうと仕方が無いのです。
ようするに価値観の問題でもあります。

例えば友人は大学、高校などに合格できたが自分は不合格で寂しい。
友人は就職できたが自分はできなくて無職、フリーターのままで寂しい。
もっと他には友人は家庭で餅つきをやっているがうちは餅も食べられない、友人は毎年家族で海外旅行に行っているが自分の家はどこにも旅行など行かない、
なども同様の心理が働くのではないでしょうか。
そういう自分に気づくチャンスだとも思えますが。

クリスチャンでは無い日本人がクリスマスを楽しむのは滑稽だと考えることもできますが、そこが宗教的に寛容であり希薄な日本人の柔軟性のある良いところなのではないかと思います。

「子供がプレゼントを楽しみにしていること」におけるドラマ。そこが日本におけるクリスマスの原点のように思いますが、
しかし、大人にとってもイエスキリストやキリスト教などそっちのけでも特別な日を楽しむことができるのならそれでも良いのではないでしょうか。

基本一応仏教徒の日本人が多いのにお釈迦様の誕生日(4月8日)が賑わないのはイベントとして魅力がなければ興味が無い日本人の特性なのかもしれません。
それ以前に仏教徒と思っている人が少ないので当然でしょうけど・・・

ちなみに今アメリカではキリスト教徒以外の人のことも考えて「メリークリスマス」ではなく「ハッピーホリデー」というのが増えつつあるようです。
【ハッピーホリデーとは】

この歌も「ハッピーホリデイ」って歌ってます(笑)

※この文章は歴史的検証をせずに独断で書いていることをご理解ください。

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