またもや森博嗣氏の本を読んで思ったこと。
「一人で遊べる人は寂しいとは感じない」という頁がある。
一人で遊んでいる人は、寂しさなんか感じていなくて、
そうではなくて、誰かと一緒にいないと遊べない人こそ寂しがり屋であるという(著者の)考えだ。
僕が思うには間違いでは無いが正解でも無いかなと思う。
一人で遊んでいても寂しさを感じないこともあるし、やはり寂しさを感じる事もある。
複数で遊んでいても別に複数じゃなきゃいけないわけでは無いと思うこともあるし、著者がいうように一人では寂しいから複数でいるという場合もある。
ようするに見た目で判断できないってこと。
この文章の最後にはネット(SNSとは書いてないがたぶんその類)で写真を撮って(すぐに)アップすることで、自分はよく見ない、記憶しないという行為について、ものを感じる以前に右から左へ流しているだけでルーターのような存在でしかないと例えている。
そうして経験したことをすぐに忘れてしまうことが「寂しい」と感じていないという人がいるのではないかということ。
中継やコピーだけの繋がりだけではなく、自分から発したり、自分で留めたりする端末であってほしいということ。
確かに、SNS等で自分が見たものをどんどんアップし、拡散するのが悪いわけではないが、自分のものとして一旦は留め置くことも重要であるということか。
しかし、僕の場合は一眼レフで撮ったものは丁寧に現像作業をするが、スマホで撮ったようなものはただそこまで気にしていないので、拡散するときは簡単にアップしてしまうなあ。だってそういうものだからスマホで撮ってるんだし。
0 件のコメント:
コメントを投稿